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銃撃数分前
「はぁ…はぁ…はぁ…。」
ようやく6階の階段踊り場にたどり着いた古田は息も絶え絶えだった。
疲労により腰をかがめた状態の彼は、階段の手すりから手を離し、自分の膝をぐっと押す。
やっとの思いで、彼は背を伸ばすことができた。
ついさっき、パンパンという銃声と後に凄まじい連射音が聞こえた。自分のような警官が所持しているハンドガンの音ではない。連射機能を備えた自動小銃の音だ。こんなところでボヤボヤしている場合ではない。すぐに銃声の聞こえた方に向かいたいが、身体が思うように動かない。
「古田から相馬。」
「はい相馬。」
「たった今、最上階のあたりで自動小銃の連射音が聞こえた。状況、把握できているか。」
「え!?」
「商業ビル班は7階に応援を寄こしたって言っとったよな。」
「は、はい。」
「そいつら…どこ行ったんや…。」
こう古田がぼやいたと同時に、彼は体勢を崩した。右足が粘り気のあるものを踏んだためにずるりと滑ったのだ。
「ああっ!」
咄嗟に階段手すりを掴むことができた彼は転倒を回避した。
「古田さん。一旦引き返した方が良いんじゃないですか。」
相馬が無線で呼びかけた。が、古田はそれに応答できなかった。
古田の足下には身ぐるみを剥がれ、血を流して横たわる警官2名の姿があった。
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「だめだ…。」
何度も古田の名前を呼ぶも、彼からの応答はない。相馬は左手で顔を拭った。
「自動小銃が連射された、か。」
吉川が呟く。
「SATは動いていないから、ウ・ダバかアルミヤのどちらかです。」
「SATは動かないのか。」
「いま本部に聞きます。」
相馬はテロ対策本部に無線を繋いだ。
「駅交番から本部。」
「はい本部。」
「商業ビル7階で自動小銃の連射音確認。対応状況を知らせて欲しい。」
「小銃連射はこちらでも確認している。いま機動隊員を投入する。」
「SATは?」
「SAT投入の時期はこちらで判断する。」
「いま投入しないでいつするんですか。」
「判断はこちらがすることだ。現場が口を挟むな。」
「古田さんが…ビルの中にいます。」
「古田さんだけじゃない。警官は他にもいる。」
「その古田さんから連絡が入っています。他の警官の姿を見ていないと。」
「え?」
「そこのところ本部は把握されていますか。」
「相馬か。岡田だ。」
「あぁ岡田課長。」
「なに?いま古田さん、ビルの中にいるのか?」
「はい。山県久美子の様子を見に行くって。で、7階の外国人の避難誘導のために応援を寄こすって言ったけど、その要員も誰の姿も見ていないって。」
「なんやって…。」
岡田は険しい顔をしている片倉を見た。彼は頷いて応えた。
「相馬。ビルの方面はこちらに任せろ。」
直ぐさま岡田は無線を切り替えた。
「本部から商業ビル班。」
「はい商業ビル班。」
「ビル7階の状況は分かったか。」
「それが…」
「それが?」
「申し訳ございません。いま確認します。」
「確認って…。」
「先に応援にやった連中から連絡がありません。」
「だからその確認をすぐにしろって言ってるんだ!」
普段冷静沈着であるはずの岡田が声を荒げた。
「いまその応援に行った奴が怪我をして苦しんでいるかもしれないだろう!それに民間人が7階にいる可能性もあるんだ。おまえら機動隊員が身体を張って突入せんと誰がそこに行くっていうんや!」
「相手の武装度合いを考えると、その中に我々がこのまま防護盾だけの装備で突入するのは丸腰で行くのと同じです。すぐにSAT突入のご指示を。」
岡田は片倉を見る。
しかし片倉は首を振って応えた。
「SATはまだ駄目だ。」
商業ビル班の責任者は10秒ほど沈黙した。
「既に丸腰同様のデカひとりが現場に向かっとる。」
「デカが!?」
「あぁ。」
「…すぐに動きます。」
「頼む。」
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警察官たちの無残な姿を見た古田は、這々の体で業務用階段からテナントフロア側へ移動した。そしてそこで物陰に潜み、上がる息を鎮めるのに必死だった。
このまま業務階段に居ては、犯人と遭遇したときに逃げ場はない。そうなると自分も彼らのように殺される。人間が本来持つ動物的勘が古田をそう突き動かした。
あの二人の警官を殺戮するために小銃が連射されたのではない。それは彼らの殺され方を見るに明らかだった。双方とも鋭利な刃物で首を切られていた。その為か床には大量の血だまりがあり、それに古田は足を滑らせたのであった。
小銃の連射音を聞いた直後、古田はあの遺体と遭遇した。となると時系列的には、彼らは連射の前に既に殺されていたと考えられる。遺体は二体。そのうち一方の遺体は制服を剥ぎ取られ半裸の状態だった。半裸の遺体の横には脱ぎ捨てられた洋服があった。
ー着替えた…。
そう考えるしかなかった。
ー警官に成りすました殺人鬼がこの建物に居る…。
殺害した対象の服装に着替える異常行動。そんなことをする奴ならば、小銃の連射くらいするだろう。古田の中で小銃連射犯は、成りすまし警官とほぼ断定された。
異常者と思える人間が民間人が避難する7階フロアで銃を乱射し、それが収まった。この事実から一体何が考えられるだろうか。
ー殺し尽くして、うろついとる…。
考えたくもない状況だが、残念ながらそれが一番可能性として高い。そうなると古田の当初目的、山県久美子の無事の確認。これついては最悪の事態が頭をよぎった。
そのときである。停止したエスカレーターの上階から、人が降りてくる音が聞こえた。
足音からそれがひとりであることが分かった。
ゆっくりと一歩一歩、確かな足取りでエスカレーターを降りてくる。物陰に身を潜めたまま古田は足音の主をどうにか確認できないか思案した。
ふと彼の目の先に一枚の姿見があることに気がついた。古田はそこに這って近づき、鏡越しでエスカレーターの方を観察することにした。
足下が見えた。スニーカーだ。それから一段降りると、彼のズボンが明らかになった。濃紺のスラックスタイプだった。このとき古田はこの男が警官に成りすました男であると推測した。そしてもう一段それを降りた彼を見てそれを確信した。
男は上下濃紺の警察官の制服を着ていた。防刃ジャケットを装着した彼は着帽もしている。一見、普通の制服警官にしか見えない。しかしいろいろおかしい点があった。
まず彼が首からぶら下げているアサルトライフルである。このような自動小銃はSATのような実力部隊ならいざ知らず、ただの制服警官が携行するものではない。次に彼がティアドロップ型のサングラスをかけている点だ。日本においてサングラスをかけた制服警官なぞ見たこともない。せいぜいが刑事ドラマの私服警官、若しくは交通機動隊の白バイ乗りだ。そして最後のおかしな点が制服の汚れだ。なんと表現したら良いのか、汚れているのである。黒ずんだ何かがそこかしこに付着しているのだ。
「古田さん。応答願います。」
男の足音だけが響くこの静寂に包まれた空間では、イヤホンから流れる相馬の声は外に漏れているのではないかと感じられた。古田は制服警官に気取られないように、そっとそれをミュートにした。
「沙希…か…。」
ぼそりと男が呟いた。
ーサキ?
「バレてたか…。」
こう言って男は足を止めた。
姿見に映った男の口元に笑みのようなものが浮かんでいる。そう古田は感じた。
頭痛音
突然の頭痛が古田を襲った。
「うぐ…。」
目を瞑り頭を両手で抱えて、痛みに耐えるも思わず声が漏れ出てしまった。
ーしまった…。
うっすらと目を開くと姿見映った制服警官が古田の存在に気がついたようで、小銃を構えてこちらに向かってきた。
ーこいつは…だめやな…。
古田は覚悟を決め目を瞑った。足音が近づいてくる。小銃がリロードされる音が聞こえた。
足音が止まった。
いよいよ最後の時がやってきた。
古田はふうーっと大きく息を吐いた。
激しい頭痛が嘘のように消えた。そして古田は無音に包まれた。
長い警察官人生だった。常に仕事が脳裏をよぎった。全てにおいて仕事が優先された。仕事のために自分を失った。そう回顧するかつての同僚も少なくない。ただ彼らに共通するのが、その自嘲気味に話す表情だ。そうだ彼らも自分も仕事を全てに優先するのが、自分らしさだったのだ。それまでの人生において。
引退してはじめて別の生き方があると知った。それだけのことだ。なので古田はまだ別の生き方を知らないだけ。自分はとうとうこのまま、その別の生き方を知らずに人生の幕を閉じる。これは残念なことなのだろうか。仕事は自分なのだから、職に殉じることは誉れと言っても良いのではないだろうか。
「心残りは…。久美子の安否確認ができんかったことか…。」
こう言って古田はその場に横になった。
「一色…すまん…。」
大きく息を吸い、それを吐き出す。
5秒。10秒。
「うん?」
古田はうっすら目を開いた。
姿見には制服警官の姿がない。
目を大きく開いた彼は咄嗟に身を起こして辺りを見た。
「はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…。」
小銃をこちらに向けていたはずの制服警官の姿は、この場から消えていた。
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山県久美子と森は無数の遺体が転がる映画館フロアの中心に力なく座り込んでいた。
すぐ側には先ほどまで避難誘導をしていた警察官が仰向けになって倒れている。その数メートル先には色の異なる外国人が10名。様々な姿勢で横たわり、その全てがピクリとも動かない。
これも全て、あの自動小銃を抱えた制服警官がやったことだ。警官は久美子に大丈夫かと声をかけるだけで、保護をすることもなくこの場から立ち去った。
何もかも意味が分からない。
「とにかくここにいちゃ駄目。久美子、下に降りるわよ。」
森は久美子を手を引いて立ち上がらせた。
そのときエスカレーターの方からこちらに登ってくる足音が聞こえた。
まさか先ほどの制服警官がこちらに戻ってきたのか。
「くそっ!」
森はそこに倒れる警察官の腰から拳銃を取り出した。
「社長…。」
「あんたあは下がってなさい。私があなたを守る。」
「でも…。」
「いいから下がってろ!」
ひそひそ声ながらも凄みを感じさせる口調で久美子をフロアの脇に追いやった森は、エスカレーター口2メートル前に立った。
森は銃を持ったことがない。だが日頃のテレビドラマなどの影響か、その手つきは手慣れたもので、特に違和感は無かった。銃弾が装填されていることを確認し、両手でもって拳銃を構えた。
コツコツとゆっくりとした足音が近づいてくる。
ー顔が見えたら撃ってやる…。
彼は撃鉄を起こした。
2秒後、森の視界に映ったのは短く刈り込まれた頭髪だった。先ほどの制服警官は着帽してた。なのでこの人物が同一人物か判別できない。もう一歩、階段を上るまで様子を見よう。そう森は判断した。
間を置かずにつづいて姿を現したのは、カメラマンジャケットを羽織った見覚えのある男の顔だった。森は彼に向かって拳銃を構えていた。
「トシさん…。」
びっくりした表情で森を見た古田は、足を止めた。
「マスター…。」
ゆっくりと森に近寄って、古田は彼の手から拳銃を引き剥がした。そして同時にこの場に広がる惨劇を目の当たりにして、よろめいた。
「トシさん!」
森は古田を抱きかかえた。
「大丈夫?しっかりして。」
「あぁ…マスター…。久美子は大丈夫か?」
「大丈夫よ。」
こう言うと森は久美子の名を呼んだ。フロアの隅に座っていた彼女は立ち上がり、辺りをキョロキョロと何かを確認するように見てから、こちらの方に駆けてきた。
「ひょっとして…古田さんですか?」
久美子は古田に尋ねた。
「…そうです。覚えてましたか。」
覚えていないわけがない。6年前の鍋島事件終了時、東京に行くとわざわざ別れを告げに来たではないか。その古田がなぜこのタイミングで、この場にこうやって現れるのか。
「え…まさか…。」
久美子は森を見た。咄嗟に彼は視線を逸らした。
「久美子さん。申し訳ないが、いまはあれこれ説明しとる場合じゃない。とにかくあんたはマスターと一緒にすぐにこの場から避難してくれ。すぐに応援が来る。」
「応援って…さっきのあの制服警官のことじゃないでしょうね。」
森が言った。
「あの警官よ!これ全部、あいつひとりの仕業なの!」
やはりそうか。古田は先ほどの絶体絶命のときの情景を思い出し、背筋が凍る思いだった。
「あいつなのよ。あいつが久美子の様子を監視していたのよ。」
「え?」
「だからあいつがここ最近久美子の様子を見ていた男だって言ってるの!」
古田は久美子を見る。彼女は静かに頷いた。
「いや…ワシもちらと見たが…サングラスをかけとったような気がしたけど…。」
「はい。なのではっきりと分かりません。」
ですがと言って久美子は続けた。
「直接聞きました。あんたでしょ。私の様子を見てたのって。」
「…で。」
「明確な返事はありませんでした。ですが。」
「ですが?」
「感じる視線が一緒でした。」
「感じる視線が一緒?具体的に…。」
「昔、私につきまとったストーカーみたいな視線じゃないんです。なんというか、監視というかどちらかというと見守るような視線を感じました。」
「見守る…。」
「はい。でも、結局私にとっては気味の悪いものに違いないんですが…。」
ふと山県久美子は古田の様子を見た。彼は心ここにあらずという様子であった。
「古田さん?」
「サキ…。」
「そう。それです。サキってあいつ言ってました。」
「朝戸沙希…か…。」
おもむろに古田はイヤホンを指で押さえて、マイクに口を近づけた。
「古田より本部。」
「はい本部岡田。古田さん大丈夫ですか?」
「大丈夫や。それよりも厳重に注意しろ。」
「なんですか。」
「武装した朝戸が既に現場に入っとる。」
「え!?」
「商業ビル7階で銃を乱射したのは朝戸慶太や。ワシがこの目で確認したところ、民間人10名と警察官3名殺害。そのほかにも犠牲者は居るかもしれん。」
「そんなに…。」
「現在、この7階にはワシと山県久美子、久美子の勤務先のオーナーの3名や。すぐに安全確保のため、相応の人員を派遣して欲しい。」
「いま機動隊が向かっています。」
「どれだけで到着する?」
「商業ビル班より7階。」
「はい7階。」
「今5階だ。もうすぐ着く。」
「犯人はカラシニコフを所持。相応の武装をしている。7階までは十分に注意して来られたい。」
「了解。」
無線を終えると古田はへなへなとその場に座り込んだ。
ーワシは…朝戸に情けをかけられてしまった…。